ショパン

ようこそショパンのコーナーへ!!

このコーナーでは、ピアニストであるショパンについて紹介していきます。


目次

ショパン、その生涯
●幼年時代
●広がる経験(ワルシャワ音楽院〜ウィーン)
●パリ
●ジョルジュ・サンドとの日々

年表


ショパン、その生涯

● 幼年時代

たった39年でこの世を去ってしまった天才フレデリク・ショパン。
もっぱらピアノに捧げた彼の一生は、
1810年3月1日、ワルシャワ郊外の小さな村、ジェラゾバァ・ヴォラで幕あけする。
父ニコラはフランス人で、この村の領主、スカルベック家の家庭教師をしていた。
ここで父はポーランド貴族の末裔である母ユスティナと出会った。
彼女もそこに仕えていたのである。

ショパンが生まれて間もなく、一家はワルシャワへ移った。
ニコラに新しい中学のフランス語教師の仕事が与えられたためである。
ワルシャワのショパン家は母のピアノを中心に和やかな雰囲気にあった。
その中で、ショパンにピアノの手ほどきをしたのは、姉のルドヴィカである。
次いでヴァイオリニスト兼ピアニストで、ピアノ教師のジヴヌィが指導にあたった。
彼のお陰で、ショパンは生涯、バッハとモーツァルトを尊敬しつずけるのである。
ショパンは、すでに7歳でポロネーズなどを作曲、次の年には初めての公開演奏会を開くなど、神童ぶりを発揮した。
しかし学校ではごく普通の子、というよりむしろ、似顔絵や物真似が得意な人気者だったという。
成長するにつれ、ショパンの才能は、ついにジブヌィの手にも負えなくなった。
1822年から指導にあたったのは、ワルシャワ音楽院長のユゼフ・エルスナーである。
彼の体系的教育の最初の成果は、<<ロンド ハ短調 Op.1>>となって現れた。
この頃までの作品は、主にポロネーズとマズルカである。
ショパンはごく自然に身近なポーランド舞曲から音楽的創造へと入って行ったのであろう。

●広がる経験(ワルシャワ音楽院〜ウィーン)

1826年9月、ワルシャワ音楽院に入学したショパンは、引きつづきエルスナーのもとで学んだ。
最初の2年間を、理論、和声、対位法に費やし、最後の1年間は作曲に専念した。
その間、1828年にはフンメル、1829年にはパガニーニのワルシャワでの演奏会を聴いている。
そしてショパン自身も、1828年にはベルリン旅行、1829年には音楽院の卒業、ウィーンでの演奏会の成功と、経験を広げて行った。
また、ワルシャワ音楽院のソプラノの学生コンスタンツィア・グワドコフスカに一方的に想いを寄せていた。
<へ短調協奏曲Op.21>や<ホ短調協奏曲Op.11>等には、彼女への想いがこめられている。
この時期、様々な作曲分野に触れたショパンは、いろいろな表現方様式を試みた。
しかしその結果、自分を表現する手段として、結局ピアノを選ぶのだった。
ところで、この頃ショパンは、ヨーロッパ各地を旅行したいと考えていたが、祖国を離れるのは、とても辛いことだった。
1830年10月、しばしのお別れの記念のつもりで「告別演奏会」を開き、11月2日、ついにワルシャワを発った。
しかし、これが祖国からの永遠の別れとなってしまうのである。
前年の成功の再現を夢見てウィーンへ到着したが、11月29日夜、ワルシャワで革命が起こり、ウィーン人の対ポーランド感情は悪化した。
演奏会も開けない状況の中で、失望と欲求不満の日々を過ごしたショパンは、パリ行きを決心した。
そして、7月20日、やっと出国できたのである。
8ヶ月のウィーン滞在であった。
パリへの途上、ミュンヘンでは演奏会を行うことができたが、次のシュトガルトでは、大非報が待っていた。
ワルシャワが陥落したのである。

●パリ

パリでのスタートは、不安定なものだった。
当初、カルクブレンナーのレッスンを受けようとさえ考えた。
しかし1832年2月26日、デビュー演奏会で成功を収め、ロートシルト(ロスチャイルド)家の援助を受けるようになってからは、事態は一転した。
ショパンは、一躍社交界の寵児となったのである。
中でもデルフィーネ・ポトッカ夫人は、音楽のよき理解者でもあった。
リストらとの共演も、しばしば行った。
そして著名な芸術家たちとの交際を楽しみ、ロマン主義思潮の中心に身を置くことになった。
ショパンの気質と貴族趣味は、ルイ=フィリップ王のパリで充足されたのである。
1835年夏〜秋にかけては、カールスバードにおける両親との再会、旧知のウォジニスキ家訪問、シューマンとの出会い、発病という一連の動きがあった。
この時につづいて、翌1836年にも、ショパンはライプツィヒにシューマンをを訪ねている。
シューマンは<Op.2>以来ショパンを認めており、2回とも興奮して熱狂的に迎えた。
ところが、ショパンは、クララの弾く自分の曲に感動したが、自分の作品が文学的に解釈されるのを嫌い、描写的、物語的作品を好まなかったため、シューマンの芸術には全く理解を示していなかった。

●ジョルジュ・サンドとの日々

いよいよショパンは、作曲活動の最盛期へと入って行く。
それはちょうど、女流作家ジョルジュ・サンドとの情熱の日々にあたっている。
ショパンがサンドに初めて会ったのは、1836年秋、リストの夜会においてだった。
初対面の”男装の麗人”サンドを、ショパンは快く思わなかった。
当時彼の心は、マリア・ウォジニスカに向いていたのである。
1835年のウォジンスキ家訪問の際に芽生えたショパンとマリアの恋は、この頃には本人同士の秘密の婚約にまで発展していた。
しかしショパンの発病も一因となって、翌1837年夏には、このロマンスは終わってしまう。
マリアとの恋に破れたショパンは、次第にサンドの魅力にとりつかれて行くのだった。
1838年秋、ショパン、サンドとサンドの子供たちは、ショパンの健康と、パリでのスキャンダルを避けるために、マニョルカ島へ向かった。
以後9年間つづいた彼らの生活の出発点である。
パルマで幸せだったのも束の間、雨期の到来とともに、ショパンの健康は悪化し、彼らはそこから10キロほどのヴァルデモザの僧院に移らざるを得なくなった。
ここでの生活は、惨澹たるものだった。
それで、翌11839年2月には、パリへ帰る決心をするが、ショパンの創造力は、その健康状態にもかかわらず、<前奏曲集>を仕上げ、さらにいくつかの作品にとりかかっていた。
5月までマルセイユで静養した後、医者の勧めもあり、ノアンへ移った。
ショパンはこの時以来、翌1840年を除いて1846年まで毎年、夏はノアンで過ごしている。
パリで構想を練った曲を、ノアンで仕上げるというパターンで、Op.35からOp.65に至る一連の傑作を生み出していったのである。
その上、1841年と1842年には、プレイエルホールでリサイタルを開いて成功している。
だが、ショパンに衝撃を与えるような事件も、たくさんあった。
1841年には、彼の片腕となっていた親友のフォンタナがアメリカへ去り、1842年にはジョブヌィ先生と友人ヤン・マトシンスキの相次ぐ死・・・・。
そして1844年5月、父ニコラの死の知らせは、ショパンを重病人にしてしまった。
それを聞いて、姉ルドヴィカがワルシャワからやって来たのは、ショパンにとって非常に嬉しいことだった。


年表

ショパンの略歴 ショパンの作品
1810年 ● 3月1日、ジェラゾヴァ・ヴォラで生まれる
● 10月、ショパン一家、ワルシャワへ移る
1811年 ● 次女イザベラ生まれる
1813年 ● 三女エミリア生まれる
1814年 ●姉ルドヴィカ(1807年生)より手ほどきを受ける
1816年 ●ヴォイチェフ・ジブヌイにピアノを習う
1817年 ●ポロネーズ ト短調が出版される
●行進曲がコンスタンチン大公爵の軍楽隊により演奏される
●ショパンの天才ぶりはワルシャワに広がり、名家に招かれるようになる
●ポロネーズ:ト短調、変ロ長調
●変奏曲
●軍隊行進曲
1818年 ●2月23(24?)日、最初の公開演奏会でギロヴェツのコンチェルトを弾く
1820年 ●1月、ワルシャワ公演中のアンジェリカ・カタラーニの前で演奏、
記念に名前入りの金時計が贈られる
●マズルカ ニ長調
1821年 ●ポロネーズ 変イ長調
1822年 ●ワルシャワ音楽院長、ユゼフ・エルスナーの指導を受ける
●夏、スカルベック夫人の招きでジェラゾヴァ・ヴォラを訪れる
●ポロネーズ 嬰ト短調